緑の傘
短い創作です。駅の忘れ物係の話。実在の駅とは関係ありません。
その駅の忘れ物係には、傘だけを担当する職員がいた。
名前は三好さん。五十代の半ばくらい。制服の袖口がいつも少しだけ濡れていた。
忘れ物の傘は、一日に平均して四十本ほど届く。雨の日はその倍。三好さんはそれを一本ずつ受け取り、柄に番号の札をかけ、届いた時刻と場所をノートに書き込む。ビニール傘は「透明・大」「透明・小」「透明・柄が黒」と分けられる。それ以外の傘は、色と柄と、骨の数まで書く。
「骨の数まで要りますか」
新しく配属された僕がそう聞いたとき、三好さんは顔を上げずに答えた。
「持ち主は、骨の数なら覚えてる」
嘘だと思った。自分の傘の骨の数なんて、僕は知らない。でも一週間後、窓口に来た年配の女性が、紺色の傘を探していると言ったあと、少し考えて「骨が十六本の」と付け足した。三好さんは黙って棚の奥から一本を出してきた。女性はそれを受け取って、開きもせずに頷いた。
傘の保管期間は二週間と決まっている。それを過ぎた傘は、まとめて業者に引き取られていく。毎月末、三好さんは棚の前でノートと傘を一本ずつ照らし合わせて、期限切れの札に赤いペンで線を引いた。
ある月末、三好さんが一本の傘の前で手を止めた。
深い緑色で、柄が木でできている。骨は八本。札の日付は三週間前だった。本来ならもう引き取られているはずの傘だ。
「これ、先月も残してましたよね」
「うん」
「規則だと」
「分かってる」
三好さんはその傘を棚から外して、窓口の横の、傘立ての端に差した。職員が雨の日に使う、置き傘用の傘立てだった。ほかの傘とは少し間をあけて差してあった。
僕はそれ以上聞かなかった。聞いても答えないだろうと思ったし、実際、それから何か月も、三好さんはその傘について何も言わなかった。
春が来て、梅雨になった。
梅雨の時期、忘れ物の傘は一日に百本を超える日もあった。棚が足りなくなって、段ボール箱に番号を書いて並べた。三好さんは相変わらず、一本ずつ骨を数えてノートに書いた。僕も骨を数えるのが速くなった。開かずに、畳んだ状態のまま、布の折り目の数で分かるようになった。
ある日、小学生の男の子が母親と一緒に来て、黄色い傘を探していると言った。柄に名前のシールが貼ってあるはずだという。棚を探すと、黄色い傘は三本あった。そのうちの一本に、半分剥がれかけたシールが貼ってあった。男の子は傘を受け取ると、その場で開いて、母親に「駅の中で開かない」と叱られていた。
そういう日の帰り際、三好さんは時々、窓口の横の傘立てを見ていた。緑色の傘は、同じ場所に差さったままだった。雨の日に職員の誰かが置き傘として使おうとすると、三好さんは「それは違う」とだけ言って、別の傘を渡した。
夏が終わって、秋になった。
冬になった。
雪の予報が出た日、窓口に若い男性が来た。会社帰りらしく、スーツの上に薄いコートを着ていた。彼は窓口に来たものの、しばらく何も言わずに、カウンターの上のパンフレットを見ていた。
「何かお探しですか」
僕が聞くと、男性は少し笑った。
「もう、ないと思うんですけど」
緑色の傘だと言った。柄が木の。去年の夏に、この駅で置き忘れた。父親の傘で、父親はそのすぐあとに入院して、秋に亡くなった。家を片付けていたら、傘のことを思い出した。ずっと玄関にあったはずの傘がない。最後に父が使ったのはいつだったか、母と話しているうちに、たぶん自分が借りて、この駅で忘れたのだと気づいた。
「保管期間があるのは知ってます。ただ、一応」
僕が何か言う前に、三好さんが後ろから出てきた。そして傘立ての端から、緑色の傘を抜いて、カウンターに置いた。
男性はしばらく傘を見ていた。
「骨は、八本ですか」
三好さんが聞いた。
男性は傘を少し開いて、骨を数えた。一本、二本と、声に出して数えていた。八本だった。
「八本です」
受け取りの書類に名前を書いてもらうとき、男性の手が少し震えていた。書類の日付の欄には、半年前の日付が書かれた札がそのまま添えられていた。本来なら、その札に赤い線が引かれているはずだった。
男性が帰ったあと、僕は三好さんに聞いた。
「どうして分かったんですか。取りに来るって」
三好さんはノートを閉じた。
「分からないよ」
「でも、残してましたよね」
「木の柄の傘は、使う人が長く使う。忘れたら、いつか思い出す。それだけ」
それから三好さんは、少しだけ付け足した。
「規則違反だから、誰にも言うなよ」
僕はその日の業務日誌に、緑色の傘・木の柄・骨八本・返却済み、とだけ書いた。
外では雪が降り始めていた。駅の入口のあたりで、傘を持っていない人たちが空を見上げて立ち止まっていた。傘立ての端には、空いた場所がひとつ残っていた。三好さんは翌月から、そこに別の傘を差すようになった。黒くて大きな、骨が十二本の傘だった。
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