粘土板の余白
創作です。三千年以上前の、架空の書記見習いの一日を想像して書きました。時代考証はしていません。余白に、小さい印を一つ。
朝、師匠の家の中庭に着くと、もう粘土がこねてあった。
今日の仕事は、倉庫の麦の数を写すことだ。師匠が昨日の夕方に書いた板を、同じように、もう一枚の板に写す。一つの印も間違えてはいけない。間違えたら、湿った粘土を指でならして、最初からやり直しになる。
僕はまだ見習いなので、使っていい葦の筆は一本だけだ。先が少し割れている。兄弟子のアッタは、新しい筆を三本持っている。
昼までに、板の半分まで写した。麦の袋の印が並ぶ。数を表す印は、慣れれば目をつぶっても書ける。難しいのは、倉庫の持ち主の名前のところだ。知らない名前は、一つずつ師匠の板をよく見て、形をそのまま写すしかない。
昼に、師匠の奥さんが薄いパンと、酸っぱい飲み物を出してくれた。アッタはパンを食べながら、南の町で大きな市が立つという話をしていた。僕はその町に行ったことがない。
午後、残りの半分を写していると、板の右下に、小さな余白が残ることに気づいた。師匠の板では、そこに何も書かれていない。
僕はしばらくその余白を見ていた。
この板は、倉庫の棚に置かれて、何年も、もしかしたら何十年も残る。誰かが麦の数を確かめるたびに取り出され、また棚に戻される。そのたびに、この余白も一緒に取り出される。
僕は筆の先で、余白に小さな印を一つだけつけた。僕の名前の最初の音を表す印だ。見ようと思わなければ見えないくらいの大きさで。
夕方、師匠が板を確認しに来た。師匠は一つずつ印を指でたどり、最後に右下の余白で指を止めた。
僕は息を止めた。
師匠は何も言わずに、板を乾かす棚に置いた。そして、明日は新しい筆を一本やる、と言った。
帰り道、アッタに、師匠の昔の板にも余白に何かついているのか聞いてみた。アッタは笑って、知らない、と言った。明日、倉庫で探してみるつもりだ。
余白の印は、乾いても残ると思う。
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