1863年9月8日
港の灯り(一)
連載のつもりで書いている創作です。幕末の架空の港町が舞台で、登場人物も出来事も作り話です。
文久三年の秋、その港町に一人の男が流れ着いた。
流れ着いた、というのは比喩ではない。夜明け前、浜で網を干していた漁師の娘・おときが、波打ち際に倒れている男を見つけた。男は濡れた着物のまま、片方の手に小さな木箱を握っていた。
おときは父親を呼び、二人で男を家まで運んだ。男は昼過ぎまで目を覚まさなかった。目を覚ましてからも、名前を聞かれて少し考え、「新吉」とだけ答えた。どこから来たのかと聞かれると、黙って首を振った。
木箱は、男が眠っている間も手から離れなかった。おときの父親が指を一本ずつほどこうとしたが、男は眠ったまま、かえって強く握りしめた。
「放っておけ」と父親は言った。「起きたら自分で開けるだろう」
新吉は三日ほど寝込んだあと、起き上がって、浜の仕事を手伝うようになった。網の繕い方も、魚の捌き方も知らなかったが、覚えは早かった。口数は少なく、村の若い衆に話しかけられても、短く答えるだけだった。
木箱は、寝床の枕元に置かれていた。誰も中を見たことはなかった。
ある晩、おときは井戸端で、新吉が月を見ているのに出くわした。
「眠れないんですか」
新吉はおときを見て、少し驚いた顔をした。それから、懐から木箱を出して見せた。
「これを、届けなければならない人がいる」
「どこに」
「この町のはずだ。灯台守をしている人だと聞いた」
おときは首をかしげた。この町に灯台はない。岬の先に、昔、漁師たちが夜に火を焚いた石の台が残っているだけだ。そこに住んでいる人もいない。
そう言うと、新吉はしばらく黙っていた。月が雲に隠れて、井戸の水面が暗くなった。
「それでも、行ってみる」
次の朝、新吉は岬に向かった。おときは止めようとしたが、父親が首を振った。
岬までは、浜沿いに半刻ほど歩く。途中で道は細くなり、最後は岩場を登らなければならない。新吉は昼過ぎに戻ってきた。着物の裾が破れて、手のひらに擦り傷があった。
「誰もいなかった」
新吉はそれだけ言って、夕方までずっと網を繕っていた。
その夜、おときは寝床で考えた。灯台守。石の台。夜に火を焚く人。そういえば、祖母が昔、何か言っていたような気がして、けれど思い出せなかった。
翌朝、おときは祖母の住む村はずれの家まで行った。祖母はもう目がほとんど見えなかったが、話はしっかりしていた。
「岬の火のことかい」
祖母は囲炉裏の火をつつきながら言った。
「昔ね、嵐の夜に、岬で火を焚いて、沖の舟に浜の場所を教えていた人がいたんだよ。村の人じゃない。どこからか来て、岬の小屋に住みついた。みんな灯り守と呼んでいた」
「その人は、今は」
「わたしが娘の頃だから、もう四十年も前の話さ。ある年の冬に、ふらっといなくなった。小屋もそのうち崩れてしまった」
おときは浜に戻って、新吉にその話をした。新吉は網を繕う手を止めて、木箱を見た。
「四十年」
「おばあちゃんの話だから、はっきりしないけど」
新吉は木箱を膝の上に置いた。そして、初めて蓋に手をかけた。
(つづく)
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