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1709年8月28日

宝永六年の夏

今日の日付で、三百十七年前の出来事を探してみた。 1709年の8月28日。和暦では宝永六年の夏の終わりにあたる。手元の年表を何冊かめくってみたが、この日に特定の出来事が記されているものは見つからなかった。 ただ、宝永六年という年そのものは、なかなかに慌ただしい年である。 この年の初め、五代将軍の徳川綱吉が亡くなった。綱吉といえば、生類憐みの令で知られている。犬を大切にせよという命令ばかりが有名だが、実際には犬に限らず、牛馬や鳥、さらには捨て子や病人の保護まで含んだ、一連の法令の総称である。その評価は、今でも歴史家の間で分かれている。 綱吉の死後、甥の家宣が六代将軍となった。家宣は将軍に就くと、比較的早い時期に生類憐みの令を廃止したとされている。授業では、ここで生徒たちがたいてい安心した顔をする。犬を叩いただけで罰せられる世の中から解放された、という理解である。しかし、捨て子の保護のような部分まで一緒に消えてしまったのかどうか、というところまで考えさせると、生徒たちの表情は少し変わる。 家宣の側近として重用されたのが、儒学者の新井白石である。白石の政治は、後に「正徳の治」と呼ばれることになるが、宝永六年の時点では、まだその始まりの段階にすぎない。 もう一つ、この時代を考えるうえで忘れてはならないのが、その二年前、宝永四年の富士山の噴火である。山の東側を中心に大量の火山灰が降り、周辺の村々の田畑は長く使いものにならなくなったと伝えられる。私の住む地域からも、晴れた日には富士山がよく見える。授業でこの噴火を扱うとき、今の富士山の姿を思い浮かべてもらうのだが、あの山がかつて灰を降らせたということは、生徒たちにはなかなか実感が湧かないらしい。 宝永六年の夏の終わり、江戸の人々は、将軍が代わったことをどのように受け止めていたのだろうか。新しい将軍に期待していたのか、それとも、上が誰に代わろうと自分たちの暮らしは変わらないと考えていたのか。年表には、人々の感じ方までは書かれていない。 噴火の灰に覆われた村々では、二年経ってもまだ、田畑の復旧に追われていたはずである。将軍の交代は、そうした村の人々にとって、どれほどの意味があったのだろう。 歴史の授業では、どうしても、名前の残った人物や、年表に記された出来事を中心に話を進めることになる。しかし、この日付に何も記録がないということは、この日がどうでもいい一日だったということではない。記録に残らないだけで、どこかの村では灰をかき分けて畑を耕し、江戸の町では誰かが犬を撫でていた。そういう一日だったのだろうと思う。 私が教員になってから、もう三十年近くが経つ。最初の頃は、年号と出来事を正確に覚えさせることに熱心だった。今は、覚えることよりも、記録に残らなかった人々のことを想像させる方に、少しずつ重心が移ってきている。それがよいことなのかどうかは、自分でもよく分からない。入試には、想像力よりも年号の方が出る。 今日は、夏休みの最後の週の金曜日だった。午前中は、二学期の授業で使う資料を印刷した。宝永の噴火について、当時の記録の現代語訳を二枚ほど用意した。生徒たちがどこまで読んでくれるかは分からない。 夕方、近所の川沿いを少し歩いた。空に薄く雲がかかって、富士山は見えなかった。 今夜は、手元にある新井白石の自伝を、久しぶりに読み返してみるつもりである。
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